――青春時代はどのように過ごしていたのですか?
10代の頃はロックにのめり込んで、バンド活動に明け暮れる日々でした。ロックスターを夢見て上京したのですが、夢破れ地元に戻り、トラック運転手やフォークリフトのオペレーターなど様々な仕事をしていました。そして22歳で岡崎の老舗の材木屋に作業員として就職しました。
当時、仕事で同僚に絶対に負けたくないと、彼らの倍の一日16時間、ガムシャラに働きました。トラックやリフトの免許があるということで作業員としてスタートしましたが、結果を残していくうちに、営業マンに転身。日々、どうしたらモノが売れるかということと向き合い始めました。
材木というものは定価がなく、営業先でいつもぶち当たる問題は、商品の価値を値段でしか見てもらえないということです。しかしある日、生産者や加工者にはこんな強い想いやこだわりがあって…という話をしたら、納得のいく値段で買ってもらえたのです。その現場にしかないストーリーを伝えることで、本来あるべき価格で売ることができた。この体験は、僕の人生の一つの転機だったように思います。
また、例えば同じヒノキでも産地や等級によって10倍、20倍も値段が違ったり、アメリカ製の輸入建材は、日本では不良品と言われるようなものまで「味がある」と高く評価されました。日本人は「アメリカ製」というブランド自体を買っているんじゃないかと気づきました。
また、貿易に携わる部署に配属された時、僕が出会ったアメリカの中小企業は、どんなに小さな会社でも当然のように世界戦略を考えてモノづくりをしていて、彼らの価値感でモノを売っているということ。名刺や封筒、カタログに、その会社のロゴやカラーがブレることなく、反映されていること。それは当時の日本の中小企業が徹底できていないことでした。
逆に、海外で感じた日本製のすごさもありました。あるアメリカ人の社長は日本の自動車を5台も所有していて、電化製品も日本製のものばかり。その社長は「日本製のクオリティは世界一だ」と豪語していたのです。そこで僕は、日本の大手ブランドを支えているのは中小企業であり、中小企業が「メイドインジャパン」というブランドバリューを支えていることに気がつきました。地味な部品を作っているようで、その品質は世界トップクラス。にもかかわらず、それをうまく発信できていないのではないか、アメリカの中小企業のようなブランディング戦略ができればもっと強い企業になれるのではないか、と思うようになったんです。
――海外経験からブランドと出会い、今のお仕事のきっかけになっているのですね。
ある時、ブランドに関する本を読んでいる中で、一つの共通する答えが見えてきました。「ブランドとは消費者との約束の証である」。しかし、無名ブランドが「約束の証」と言っても説得力がない。そこで僕は、ブランドとは消費者に魅力を伝えるための武器だと考えました。
どうしたら消費者に魅力を伝えるためのブランドを作ることができるのか。ブランドというものと向き合うべく、社内に「コンチネンタル・スタジオ」という家具ブランドを立ち上げました。生産者やデザイナーの名前、彼らのメッセージを商品とともに届けることで、オンリーワンのブランドを目指しました。雑誌に掲載してもらうのではなく、逆に出版社から「どうしたら取り上げてもらえるか」を考えて発信し続けた結果、半年後には毎月3誌以上何らかの雑誌に取り上げられるまでになりました。また、海外へも進出し、2004年、上海で「KOO」という中国初のデザインギャラリーを立ち上げ、ドイツの国営TVやイギリスのICON誌にも取り上げられました。
――そして株式会社DDRを立ち上げられた。
東京でフリープロデューサーを経て、地元岡崎市に戻り、2006年10月、ブランディング・カンパニー株式会社DDRを立ち上げました。社名はDesign(デザイン)、Dragon(竜、「竜二」の名前から)、Revolution(革命)の頭文字をとったもので、「地方から世界に革命を起こす」という気概を込めたものです。材木屋時代の経験やフリープロデューサー時代に実践で培ってきたブランディングのノウハウを駆使し、企業様の魅力発信のお手伝いをする会社です。企業様の名刺、ロゴマーク等のデザイン制作をはじめ、封筒、DM、チラシ、商品パッケージ、未来予想図、ウェブサイト制作、新規事業の立ち上げなど、トータルで企業のブランディングのお手伝いをさせていただいております。
2007年1月に「地域を世界に発信」をテーマにした「サムライ日本プロジェクト」を立ち上げ、プロジェクトが順調に進む一方で、その年の秋、僕は体調を崩して病院に行くとそのまま入院する事態になってしまいました。慢性骨髄性白血病でした。もともと仕事に集中すると夜も寝ず、食事もろくに食べないという性格だったので、体調の変化に気づきませんでしたが、体重は10キロも減っていました。しかし、それを打ち明けると「サムライ~」の仲間やお客様が離れていってしまうのでは…と怖くなり、半年間はお客様に告白することができませんでした。このままではいけないと思い、ある日打ち明けると、お客様は離れるどころか逆に応援してくれたのです。
現在、僕の病気は薬で症状を抑えられます。毎日薬を飲み、毎月病院で血液検査をし、向こう1年間の命の保証をしてもらう生活です。しかし、これによって1日1日何をやるのか、どう生きるのかを考えるようになりました。ブログの最後に必ず「頑張ります」と書くのは、この気持ちを忘れず、慢心することなく1日1日を頑張って生きる、という気持ちを込めたものなのです。