創業文政11年(1828年)、愛知県岡崎市で180年以上続く石屋の8代目として育てられた杉田規久男。脈々と続く石屋の技術を継承しながら、石造物を守るためのある商品の開発に成功し、全国へ広がりをみせている。「伝統を守るためには新しいことに挑戦しなければ」という杉田の想いに、サムライ日本プロジェクトの安藤竜二が迫った。

安藤竜二(以下安藤) 杉田さんは愛知県岡崎市で180年以上続く石屋の8代目ということですが、岡崎は石の街として全国的にも有名ですよね。

杉田規久男(以下杉田) 15世紀半ばの室町時代、岡崎城の築城によって、多くの石工が大阪・河内の国から派遣され、岡崎に住み着いたと言われ、岡崎の石工の先祖と言われています。市内の花崗(みかげ)町には、現在も「石屋町通り」があり、その中心部である、花崗町3番地が杉田家発祥の地です。

 また、岡崎は石の産地としても有名で日本三大石材産地にも選ばれています。そんな岡崎で、杉田家は一番古い石屋(岡崎商工会議所調べ)と言われているんですよ。

安藤 やはり石屋になるべく育てられたのですか?

杉田 そうですね。私の名前である「規久男」は、私のひいおばあさんである5代目の女頭首、菊さんの名前を受け継いだものなんです。6代目である祖父には、たっぷりの愛情を持って育てられ、彼の遺言で杉田家本家発祥の地を受け継ぎ、7代目の父には厳しく石大工棟梁としての知識と技術を一子相伝で受け継ぎました。先祖から色々なものを受け継いで、今の私があると言えますね。

 小学生までは毎朝、のみの焼きを入れる独特の音で目を覚ましていました。石を削るための鉄ののみは、一日も経たないうちに刃がだめになってしまうので、職人さんの一日は、日の出とともに火を起こし、のみを作ることから始まるんです。幼い頃から「お前が8代目」と言われ、職人さんたちからは「坊ちゃん」と言われ、育てられてきたので、僕は石屋になるものなんだな、と自然と受け入れるようになっていました。

 それこそ中卒で石屋の世界に入ろうと考えていましたが、「石のことだけを知っていればいい時代ではない」という7代目の勧めで、大学では経済学を専攻。さらに、卒業後は営業を経験しろとのお達しで、クルマ好きだったことから、大手自動車会社の営業マンに。新入社員150人の代表として入社しましたが、最初の半年間は、まったく売れなかった。1日500軒の家を回り、本を読み漁り、先輩に話を聞いても泣かず飛ばす。悩んだ挙句にたどり着いたのは「紹介」でした。知り合いはもちろん、ガソリンスタンドでも「紹介して!」と名刺を渡していると、ある日を境に急に売れるようになり、更にお客さんがお客さんを紹介してくれるということまで。1年目で営業所販売店のトップセールスを達成できたんです。この経験から、自分を紹介してもらうために、「約束を守る」、「かわいがってもらえる人間」を目指すようになり、頭を下げることも覚えました。この時に学んだことは、今の仕事にも繋がっていますね。

 また、意外と思われるかもしれませんが、茶道を勉強していたこともあるんです。そこで学んだのは「一期一会」。一生に一度しかお会いできないつもりで、もてなし、接する気持ちが大切なんだと。そうすることで次に繋がっていくと思いますね。

安藤 家に入ったのはいつ頃なんですか?

杉田 営業マンとして3年働いた後ですね。入ってからはクレーン車などの重機の免許を取り、現場で自分の手足のように重機を扱う日々。7代目や職人に教えられながら、実践で学んでいきました。そのうちに難しい作業は私が任されるようになり、周りにも認められ、34歳で8代目として跡を継ぎました。30人の職人・社員を取りまとめ、それぞれの職人の得意分野を活かして、最高の仕事ができるよう統括していました。

 既存の石造物を扱わせていただく時には、そのものに施主さんの想いがこもっています。何かあった場合にも弁償できるものではありません。しかし、今までに一度も大きなトラブルや怪我もなく、1000を超える施工例を残すことができたのは、様々なことを想定し、準備を怠らないことを徹底してきたからだと思います。養生・事前準備にはどこの石屋さんより時間を割いていたのではないでしょうか。

 ちなみに給料は入社当初、手取りで5、6万しかなく、1年もしたら営業マン時代の貯金もゼロに。他に仕事を探さないとやっていけないと思いましたね(苦笑)。社長になった時でも総支給額で20万でしたから、この修行時代では本当にお金の大切さを学びました。おかげさまで、スーツや靴、シャツ一枚まで、大切に扱わなきゃと非常に物持ちが良くなりましたね。