白色にこだわる解体屋、株式会社フィット。社員のユニフォーム、トラックを白色で統一。また、名刺、会社案内、WEBサイトなどの発信ツールのデザインも統一。今までの解体屋とは違う、新たなイメージを作り上げていったのは、フィット代表中崎昌弘と旧知の仲であった永田裕一朗。株式会社フィット・プラス代表として、フィットブランドをプロデュースする永田に、サムライ日本プロジェクトの安藤竜二が迫った。

安藤竜二(以下安藤) 株式会社フィット代表の中崎さんと永田さんは、どういう関係だったんですか。

永田裕一朗(以下永田) 中崎とは、昔一緒に働いていた仲なんです。中崎が会社を興すときに相談を受けまして、実はフィットという名前を付けたのは、僕なんですよ。解体屋っていうのは、形あるものをゼロにする仕事で、誰がやっても最後は更地になる。そこでの差別化ができないからこそ、それまでの過程が大事ではないかと思いました。解体屋に対してみんなが描いているイメージって、きつい、汚い、危険の3K。そのイメージを変える名前が必要だと、中崎に話しました。そして、すごくキャッチな横文字のフィットっていう名前を提案したんです。

安藤 フィットという名前は永田さんが考えられたんですか。中崎さんに出会うまでは何をやられていたんですか。

永田 学校を卒業してから、建築資材のメーカーに就職しました。全国区のメーカーで、建築会社、設計事務所を相手に営業をしていました。そこに8年いましたかね。その後、販売施工代理店に転職し、そこで中崎と出会いました。

安藤 最初はメーカーさんで営業をやっていたんですね。

永田 建築資材メーカーでの仕事は、設計事務所に営業にいき、図面の中に指定を入れていただく。設計指定って言うんですけど、自分の会社の資材を使っていただく契約を取ることが仕事でした。今は、業界の流れが変わってなくなってきましたが、僕らの時代は各メーカーに販売促進部があって、他のライバル会社としのぎを削っていました。僕の会社は、他社よりも技術的に優れた製品を開発していましたので、職人さんからの評価も高かったです。だから、営業では製品の良さをアピールするだけで事足りました。

安藤 値段交渉ではなく、製品の良さで売っていくあたりは、今のブランドメークにつながっているところがありますね。でも、その会社からどうして転職することになったのですか。

永田 今までやってきた仕事の先が見たくなったからです。メーカーでの仕事は図面に指定が入ったところで終了。そのあとの、施工は別会社が行うので、図面が実際に形になっていく姿を見ることができないことに物足りなさを感じるようになったんです。ちょうど、30歳手前。何か新しいことに挑戦したいと考えるようになった時期でもありました。デザインに興味があったので、最初は広告代理店に転職しようって思ったんです。でも、まずは今までやってきたこの建築の世界をとことん突き詰めていっていこうと思い、それで最終的には、材料販売から管理施工まで行う代理店に転職したんです。

安藤 ちょうど、人生を見つめ直す時期で色々と考えられたんですね。そして、転職先で中崎さんと出会運ったんですね。

永田 すぐに意気投合してね、二人で遮二無二働いていたら、いつの間にか中部地区で一番の代理店になっていました。ほんと、今までとは違い、自分のやったことが形として見える仕事場でとてもやりがいがありました。一方で、これまでは、いいものをどれだけアピールするかという一点でしたが、製品があり、職人がいて、その中で、相手に自社の魅力をどう伝えるか、難しい部分もありました。中崎との出会いもそうですが、ここで働いているときに、人とのつながりの大切さをしみじみ感じました。一人のお客さんが、また次のお客さんを紹介してくださる。これは今でも、変わらず心に留めて仕事をしています。

安藤 そして、いよいよフィットが誕生するわけですね。

永田 中崎が平成17年に株式会社フィットを設立しました。尾張地区を中心に営業をし、徐々にお客様のエリアが広がっていき、平成20年に三河営業所を立ち上げるという時に僕は入社しました。ちょうど会社がこれから大きくなっていくという転換期。ふと会社を見回したら、フィットには自分たちを表現するものが何もなかったんですね。中崎はこれまで無我夢中でやってきたから、気が付かなかったでしょうが、僕は途中から会社に入ったことにより、客観的に見ることができた。そこで、フィットブランドを作らなければいけないと思ったんです。