「橋谷株式會社」は1895年(明治28年)創業。五稜郭や赤レンガ倉庫などでお馴染の函館市を代表する老舗企業である。「ダイボシさん」と呼ばれ地域に親しまれ続けている企業の4代目は、アメリカでの生活経験も持つ橋谷秀一 代表取締役社長。どんなリーダーシップを取っていくのか。 叩き上げのブランディング・プロデューサー安藤竜二が迫った。

安藤竜二(以下安藤) はじめに「橋谷株式會社」の創業について教えてください。

橋谷秀一(以下橋谷) 創業者の曽祖父、橋谷已之吉が石川県から北前船で函館に移り、1895年(明治28年)にタバコの行商をスタートさせました。その後、米の販売へと事業を広げ、現在の基幹事業でもある、砂糖や小麦粉、食用油などを取り扱う問屋として成長していきました。当時の砂糖は、メーカーが特約店を絞り、1地域1拠点のような扱いだったと聞いています。食品の輸送に欠かせなかった海運業を神戸で立ち上げ、6隻の大型船舶も自社で所持しておりました。沖縄をはじめ、満州、さらにはロシアとも取り引きを行っており、独自の航路も持っていました。

安藤 食品の卸しから、インフラ業も担うように事業拡大されたわけですね。

橋谷 当時は日本軍の食糧の調達部門として動いていたようです。また、北海道と沖縄(当時は琉球国)とは実は関係性も深く、沖縄は昆布の消費量が日本一多く、北海道の昆布を沖縄へ、沖縄の黒糖を北海道に輸送していました。その後、激化した第二次世界大戦の影響で、所有していた船舶が国に接収されたため、海運業は終焉を迎えてしまいました。

安藤 そのような危機をどのように乗り越えたのですか。

橋谷 すり身などの水産加工業で保存料として砂糖を使用するのですが、漁獲高が少しずつ落ちてきまして、特に砂糖は弊社がメインで扱っている品目ということもあり、危機感を抱いていました。そこで注目したのが、業界的に盛り上がってきたパン屋さんやケーキ屋さんといった製菓業でした。砂糖だけなく、小麦や食用油などにもシフトしながら、少しずつ取り扱い品目を増やしていきました。これが現在のビジネスの柱となっています。

安藤 橋谷さんは海外での生活経験もありましたよね。

橋谷 高校までは函館で過ごしたのですが、卒業後はウエストバージニア州の州立大学に通っていました。実は中学時代から、佐野元春やカシオペアにはまり、どんどんギターにのめり込んでいきました。高校の学園祭で聖飢魔Ⅱを演奏したことをキッカケに、そこからハードロックに目覚めまして、最終的には音響に凄く惹かれました。大学のエレクトリカルエンジニアリング学部に入り、電子工学を学びながら、アンプなども自作していました。ギターも大好きでしたし、機械自体にも凄く興味があったので、本場まで行ってしまいました。大学を卒業して、ニューヨークにいた頃には、ブロードウェイのライブハウスでもステージに立つことができました。今では良い思い出ですね。

安藤 大学卒業後にニューヨークに行かれたのですか。

橋谷 音楽系のエンジニアの仕事を探していたのですが、日本に帰るのはもったいないと思っていました。理系大学だったということもあり、工学系の学生を探していたニューヨークに支店がある宇宙防衛専門商社に4年間務めました。マーケティング担当で、アメリカのメーカーと交渉を行い、日本での総代理権を獲得するという仕事をしておりました。ニューヨークという街は、人種のるつぼでしたので、様々な文化に触れ、吸収することができたかと思います。また、アメリカに行く前は内気な性格だったのですが、ホームパーティ等に参加するにつれて、人づきあいが得意になって帰国することもできたのも大きな収穫でした。