安藤竜二(以下安藤) ハイホームスさんのある静岡県中部地区というのは、どういったところなのでしょうか。
杉村喜美雄(以下杉村) 南アルプスから駿河湾の平野部まで広がる大井川沿いの豊かな森林に恵まれ、この辺りは昔から地場産業として家具雑貨など木材の加工品を生産していました。木材加工の機械でも日本のトップシェアを誇ってたんですよ。
安藤 そんな木の街で、杉村社長はどのように育ったのでしょうか。
杉村 私の親父は木材加工によって出るおがくずや木片を燃料にして、瓦屋さんなどに卸す仕事をしていました。親父との思い出は、製材工場でむせびながらおがくずにまみれていた日々と、肌についたおがくずの木の匂いが一緒に蘇ってきます。小学校の頃、授業でこの街を描くということになった時に、「木のモニュメント」を描いたことも。今思えば、それは現在の仕事を暗示していたのかもしれませんね。
親父は私を大学に行かせるつもりはなく、まず商業高校へ、卒業したら床屋になれが口癖でした。ところが、当時近所に工業高校ができたことが転機に。当時としてはなかなか人気の高校で、ここならばと親父は許してくれたのです。もともとモノづくりが好きで、高校では建築科を専攻しました。就職は清水市内のゼネコンに。しかし、会社勤めでは毎日同じことの繰り返し。常に「このままではいけない!」という思いを抱えていました。
お金を貯めて、4年ほど勤めた会社を辞め、単身渡英を決意。語学学校に入って、ビザを更新しながら1年ほど英国、欧州諸国に滞在しました。実はそのまま欧州に住みたい、という想いもあったのですが、日本を出る前に交わした、ある会社との「1年後の入社の約束」、長男である私への父の思いが私を日本に連れ戻しました。
海外に行ったことによる収穫の一つは、30年以上経った今でも、連絡を取り合い、心を寄せる友人がいること。最近になってお互いに年月が意味する価値を感じ始めました。この30年の間に築いた信頼関係はお互いにとっての財産なのだな、と。
安藤 創業時からずっとお付き合いのあるお客さんも多いそうですが、「信頼関係はお互いの財産」というのは、杉村社長とお客さんとのお付き合いにも同じことが言えますね。
杉村 帰国後は誘われていたゼネコンに就職。ここでの悩みはいつでも安いほうが勝つ、という値段勝負になってしまうこと。建築現場に立つやりがいはあれどユーザーの顔は見えず、私は数字だけの競争に喜びを感じることができませんでした。
10年ほど勤めて退職し、お客様の顔が見える会社を作りたいという想いのもと、34歳の時に株式会社ハイホームス(現:株式会社育暮家ハイホームス)を設立。その名前にはお客様の声に、何でも「ハイ!」と応える企業でありたいという想いを込めました。増改築の専門店として始まり、スーパーマーケットの店舗改装、鉄骨や浄化槽の仕事、アパートの設計、施工を受注したり、と守備範囲を広げていきました。
安藤 戸建をやるようになったきっかけは?
杉村 創業して5年ほど経った頃、「OMソーラー」との出会いがきっかけでした。OMソーラーとは、太陽エネルギーを電気に変換して使うのではなく、太陽の熱をそのまま利用し、暖房や給湯に生かす仕組みです。
OMをきっかけに出会った建築家の方々の建築談議を横から聞いているだけでも私にとって大きな刺激となりました。それは今まで私が考えてきた建築の概念を打ち崩すもので、建築とは何か、家づくりとは何かということがようやく解り始めた、そんな気すらしました。現在ハイホームスがこだわる「自然と共生する家づくり」や「木の家をデザインする」という考え方も、ここから始まったものと言えます。
安藤 「木の家」へのこだわりとは?
杉村 2000年、弊社の社員が代表を務め、「大井川の木で家をつくる会」を発足しました。地元の製材屋さんの協力によって、大井川流域の杉、桧の木を使った家づくりを推奨する会です。コンセプトは森・里・海は繋がっていて、森が元気になれば、里も海も元気になる、という考え方。全国で急速に失われつつある「生きた森」を蘇らせるためには人の手が不可欠で、山の木が家や家具に使われ、山にお金が返ることが重要です。会は2010年、財団法人日本住宅・木材技術センターによる「顔の見える木材での家づくり50選」にも選ばれました。近くの山の木を考えるときの新しいキーワードは森自身が描く「森の夢」。「こんな風に森の木を使って欲しいな」、「森がキレイになれば海の魚も喜ぶかな」・・・森の立場になって、「森が望んでいる家づくり」を考えてみる。そうすればなぜ、大井川の森の木で家をつくり続けるかを理解し、伝えやすくなるように思います。