「1000店をデザインした男」、「繁盛店請負人」……実に20年以上、業界の第一線を走り続けてきた男に付いた肩書きは数知れず。建築デザイナー、神谷利徳。その素顔と、見据える未来に「サムライ日本プロジェクト」の安藤竜二が追った。

安藤竜二(以下安藤) やっぱり学生時代から建築デザイナー志望だったんですか?

神谷利徳(以下神谷) もともと建築デザイナーになりたいという発想はなかったんです。絵を描くことが好きということもなかったし、美術の成績なんて最悪。大学は農学部で、今でこそバイオテクノロジーなんて注目されていますが、当時は実にマイナーな学部で、地味な男子学生ばかりの集団でした。あまりにも女の子との接点がなかったので、ある日、名古屋国際ホテルの喫茶店でのバイトを決意。そしたらなぜか地下のバーに配属に。18歳の秋、「女」ではなく「お酒」との出会いでした。華やかなキャンパスライフは夢と散った、そう思いましたね。

 バーテンダーは奥の深い世界でした。お客さんとの立ち位置、間合い、空気を読むこと。相手の欲するものを察し、ありとあらゆることに気を遣う。一見、静止しているように見えて、実は高速回転して自立する「コマ」でなくてはならない……。僕はすっかりその世界にのめり込んでいました。

 バーテンのバイトをやりながらも、ちゃんと大学には通っていました。農学部は3、4年生になると、実験の毎日。毎日連続する実験だから一日も休めない。その上、劇団まで始めてしまい、17時までは大学、18時から芝居の練習、22時から2つのバーを掛け持ちして朝の5時まで働く、という生活。睡眠だけを削ることで、日々何とか回していました。そんな生活の中で、いつかは銀座でバーテンを、という道を思い描いていました。

安藤 夜王の道を極めずに、どうしてデザイナーの道に?

神谷 卒業後もバーテンとして働きながら、インテリアショップを掛け持ちしたり、ある時から昼間は家具工房に通い、家具職人になりかけたことも。無垢材を使った家具に魅せられ、作品をバーでお客さんに見てもらったり。学生時代同様、睡眠時間を削って、やりたいことを何でもやっていましたね。

 ある日、友人からディスコをやりたいとの相談を受け、どんな店にするか、アイデアを出し合いました。僕はデザインの勉強なんてしたことなかったけど、客の求めるものや時代感、店の設計等を考えることはすごく楽しかった。物件も決まっていない状態から、実に構想1年。アイデアを練り、温めていきました。

 その間に、バンドをやっていた友人が鉄板居酒屋をやるというので、お店のデザインを依頼されました。実はこれが第一軒目。27歳の10月、ついにバーテンを辞め、現場に立ちました。特徴は店先に吊るされたサンドバッグ。お客さんがそれを殴って、スカッとした気持ちで店に入ってもらえるように、という。その1ヵ月後に、1年温めた渾身のディスコ、「シェルター4.2Z–0151」が完成。DJブースを2つ設けた、当時としては斬新な設計がウリでした。これが「商店建築」に掲載され、その後はディスコブームに乗って、幾つかのディスコを手がけました。同じビルの1階にハウスオンリー、2階にレゲエオンリーというコンセプト重視のものなど、作る度に雑誌に取り上げられました。ただ、当時は「デザイナー」という自覚はなく、友人のためにとか、ただ作りたいものを作っていたという感覚でしたね。

 27歳で神谷デザイン事務所を設立、その後、約7年間は一人で切り盛りしていました。昼間は現場、夜は図面描き、と相変わらず「睡眠さえ削れば」という発想で。しかし、仕事が軌道に乗りはじめ、一度に3つくらいの案件を抱えてしまうと、どうにも一人では回らなくなってきた。そこで以前、現場で一緒に仕事をしたスタッフを口説こうとしてみると、彼は一週間前に建築の世界から足を洗い、婿養子になるために実家に帰ってしまった、との情報。そんな彼の実家に押しかけ、「もう一度、俺と一緒にデザインのリングに上がらないか」って。数日後、「養子の話は断りました」と返事がありました。事務所を彼の住まいとし、2年ほど同じ釜の飯を食いながら一緒に働きました。彼は近くのバーの女の子と結婚し、辞めましたが、その後、事務所では若いデザイナーを雇いはじめ、5人、10人と規模が大きくなっていきました。飲食店さんを中心に仕事が増えていきましたね。

安藤 神谷さんの手がけたお店が密集する一角が名古屋にはありますよね。かつては「神谷ストリート」という言葉があったほど。

神谷 「店づくりは街づくり」だと思っています。お店ではありませんが、豊橋鉄道の新豊橋駅というパブリックスペースのデザインを担当させていただいた際に、地元の子ども達にサンドペーパーで木を研磨する作業に参加してもらったんです。市民の皆さんが利用する駅だからこそ、市民の皆さんに参加してもらうことに意味があると思いました。こうした行為はデザインを超えると思うんです。

 最近では地域活性化の相談もよく受けますが、地域がもともと持ってるポテンシャルを取り戻さないと、本質的な解決には至らない。病気を根本的に治すのは「自然治癒」が必要で、僕たちのようなよそ者はカンフル剤として、きっかけづくりはできても、最終的には地場のエネルギーが必要になってくると思います。