鹿児島県のシンボル桜島。そこから陸続きにある町、垂水市で川畑瓦工業は誕生した。セメント瓦のメーカーとしてスタートした同社が、バブル崩壊後、縮小の進む住宅業界でどうやって生き抜く術を見つけ出したのか。叩き上げブランディングプロデューサーの安藤竜二が、川畑瓦工業の3代目、代表取締役の川畑博海に訊く。

安藤竜二 (以下安藤) まずは会社の成り立ちを教えてください。

川畑博海(以下川畑) 左官業をやっていた祖父が取引先から瓦工事を勧められたのがきっかけです。当時では珍しかった手動式セメント瓦製造機を譲り受け、瓦のメーカーとして1963年に川畑瓦工業ははじまりました。
        
安藤 日本が高度経済成長を迎えた頃ですね。

川畑 そうですね。私どもの会社がある鹿児島県垂水市でも住宅がどんどんと建つ時代でした。ただ、事業は順調に進んだわけではありません。創業して間もない頃、父の結婚式が終わった後、創業者の祖父が交通事故で他界。そうして23歳にして父が事業を引き継ぐことになりました。右も左も分からなかった若輩者がいきなり代表になるわけですから、それは苦労の連続だったと思います。

安藤 工場内を見るとプレス機がたくさんあります。当時はかなりの活気があったのではないですか。

川畑 瓦の製造は創業から右肩上がりで伸びていたと聞いています。2001年の最盛期には、社員は23名いました。8台あるプレス機が稼働し、敷地内には生産した瓦が高く積み上げられ、大型トラックが忙しなく出入りする。私も勤務していましたからはっきり覚えていますが、本当に活気のある毎日でしたね。しかし、ご存知のようにバブルは弾けて時代は変わりました。1997年、日本の新設住宅の着工戸数は全国で163万戸を数えていましたが、リーマンショックも大きな出来事で、私が会社を継いだのはその翌年です。2010年には、新設住宅の着工戸数は最盛期のおよそ半分に減少してしまいました。

安藤 大変な時期に事業を継いだわけですが、どのような取り組みを行いましたか。

川畑 メーカーからリフォーム会社への転身です。私たちはセメント瓦のメーカーとしてスタートし、セメント瓦の製造と販売、そして新築住宅の瓦工事を中核事業として成長してきました。ただ、セメント瓦の製造は減少する一方でしたし、工事もハウスメーカーの下請けですからスタンスとしては受け身です。「仕事を待っているばかりではいけない」と考え、屋根工事の元請けとして成長する道を模索しました。「じいちゃんと父さんが築いた会社を辞めるわけにはいかない」その一心でした。
 
安藤 これまではハウスメーカーがお客様でしたが、今度は一般の消費者となる。するとサービスも見られ方も変わってきます。職人仕事を行う同社にとって、簡単にいかなかったのではないですか。

川畑 まさにその通りです。真剣に見つめ直したのは2012年頃ですね。ある日、工事中のお客様から電話が入ってきました。「HPには『お客様のために』とか書いてあるけど、これはどういうことだ!」というクレームでした。事情を聞くと内容はボタンの掛け違えのようなものでしたが、お客様がご立腹なのは事実。低頭平身で詫び、工事を終えた後も謝罪に伺いました。すると「こっちも言い過ぎたし悪かった。でも、川畑さんに頼んで本当に良かった。ありがとうございます」と言っていただいた。その時です。ようやく気付かされた気分でした。嬉しそうに屋根を見つめる姿を見て、「私たちはエンドユーザーから『ありがとう』をいただかなくてはいけない」と痛感しました。

安藤 なるほど。それからどういったことを行ったのでしょう。

川畑 どうしたら「お客様から『ありがとう』をいただけるか」と真剣に考えました。もちろん、私だけでなく社員全員でアイデアを出し合いました。理念や取り組みを私が押し付けるのではなく、全員で考えて共有することが大切だと感じたからです。挨拶や身だしなみなど、当たり前のことを変えるのはもちろん、今では朝礼で経営理念を唱和し、社内勉強会も頻繁に開催。先代の頃は「そんな暇があったら現場に行け!」と叱りつけられるような会社でしたが、決して父が悪いのではないと思っています。職人仕事とはそういう時代だったのです。でも、今となっては通用しない。現在は工事後、お客様にアンケートを記入いただいていますが、お褒めの言葉をいただく事も多く本当に嬉しいかぎりです。