安藤竜二(以下安藤) 中村さんってどんなお子さんだったんですか?
中村新(以下中村) 中学1年生の頃は「神童」と呼ばれていたんですよ(笑)。当時、毎週金曜に古典落語を流すラジオ番組があって、初めて聴いたその番組の落語を、一度聴いただけですっかり憶えてしまったんです。
以来、学校の授業はうわの空。思い浮かぶのは落語のことばかり。そのうちに、芸人になるための登竜門「素人名人会」というコンテストに出場し、結局、予選は通ったんですが、本選でグランプリは取れなかった。でも、これがきっかけで毎日放送のお笑い番組や笑福亭仁鶴さんの番組に出演、和歌山放送のラジオ番組ではレギュラーを務めたこともあったんですよ。
安藤 普通の中学生が一躍有名人になってしまったんですね! どんなご家族だったんですか?
中村 父は国鉄職員でありながら、ウッドベースのプレイヤー。歌も好きでNHKのコンクールのグランプリを取ったほど。姉は毎日放送の独唱コンクールで優勝したことがあるということから父は私を芸の道に行かせたくてしょうがなかったようでした。
高校卒業して芸能プロダクションに所属しながら、大学に通う予定だったんですが、突然、父が他界してしまったんです。財産を放棄してしまっていたことで、一転、家族は借金まみれになり、芸能活動どころではなくなってしまいました。「手に職をつけるべきだ」と決意し、急遽進路を変更。高校卒業後は、辻調理師学校に通うことになりました。
学校では優等生だったんですよ。二千人程いる生徒の中で首席、つまり筆記、実技も優秀。その結果として卒業の際に最優秀賞に選ばれたんです。しかし、今思えばあれが人生最高の華だったかもしれませんね(笑)。
卒業後は学校側に声を掛けられ、そのまま居残って教える立場に。学費のモトを取ってやろうと思ってね(笑)。
5年ほど教職員として勤めましたが、私には大きな組織は合わないと感じ、ヨーロッパで修行をしたいと考えるようになりました。
安藤 実際に海外に出るきっかけは何だったのですか?
中村 ある日、イギリスの三ツ星レストランがシェフの募集をしていて、知人からお声がかかったんです。滅多にないチャンスだったので、即答で「行きます!」と。しかし、三ツ星といえど、見習い扱いで月給は7万円。しかし家賃が週に7万円。とてもやっていけなかったのですが、またしてもチャンスが訪れました。貴族の邸宅で週末に料理を作ると1度につき5万円もらえるというのです。
その貴族はワインストックさんという方で、戦勝記念日にエリザベス女王様より先に馬車に乗っているくらい、格の高いお方。自宅敷地内には彼のために特急列車が停まるほど。彼に気に入られるとイギリスの市民権が得られたり、お店も出してもらえるという、一流シェフになるための早道のような場所だったそうです。
だだっぴろいキッチンに、満載の食材。敷地内にはオーガニックの農園があって、欲しい野菜は電話一本で届けてくれました。また、ワインストックさんのために作られたお塩があって、それがまた格別。この塩を使ってボイルした野菜を、大変気に入っていただけました。
もちろんトラディショナルなイギリス料理も作りました。日曜お昼の正餐はローストビーフにヨークシャープディング。クランベリーソースといった、日本ではまず縁のない料理まで、自分流のアレンジも加えながら作っていきました。
イギリスからフランスにいたのは27~29歳くらい。離れる時はとても残念がられて、店を持たせてやるとか、騎士(ナイト)の称号を与えてやるから、なんて話もあったんですよ。その後、半年ほど料理研修という名目でフランスを旅して、1980年くらいに帰国。日本では、ちょうどフランス料理への機運が高まっていた時期でした。
安藤 イギリスでそのまま料理人を極めるという人生を選ばず、日本で何をされたんですか?
中村 母校、辻調理師学校の先生に、小川忠彦という人がいました。TBSの「料理天国」というテレビ番組にも出演していた花形シェフ。彼が学校を辞めて独立することになり、シェフとして補佐役を頼まれたんです。
今まで東京にしかなかったようなメジャーレストランが、関西で初めてできるということで業界大注目の中、大阪・北新地の一等地に店は完成、スタッフも揃い、いよいよ開店、というところで小川先生が癌で亡くなってしまいました。あまりに突然のことだったので涙も出ませんでした。店のスポンサーだった会社の社長が「君がやりなさい」と全面支援していただき、お店は開店。がむしゃらに頑張って、お店は高い評価を得ることができました。
父の時もそうでしたが、僕の人生は「これから頑張るぞ」という時に目標とすべき人が他界してしまうんですね。
安藤 教えを請う人がいないので、自分で考え、独学でやらないといけない状況が度々訪れるんですね。
中村 その店では毎回文句ばかり言って帰っていくフランス人がいて、「何なんや、アイツは」と思っていたんです。確かに破天荒な料理をやっていましたが、ある日、突然褒めちぎって帰っていった。その数ヵ月後、フランスの雑誌「FIGARO」に、「日本の料理界にモーツァルト現る!」と私の記事が載っていました。「不協和音ばかり作っていたが、ついに和音を作り上げた、今後が楽しみだ」と。
「リオン・ドール」は、バブル絶頂期とバブル崩壊を経験し、なくなっていった「幻の店」でした。この時、痛感したんですよ、経営って難しいなって。