いま刃物の街、関市の技術をジャパン・メイドとして世界に発信している男がいる。明治6年創業の三星刃物代表取締役社長であり、5代目の渡邉隆久だ。常に同業他社に先駆けて時代を切り開いてきた刃物の商社がいま直面する現実。それを打開するべく立ち上げた新しいプロジェクト。それを自ら世界へ提案している渡邉隆久に、サムライ日本プロジェクトの安藤竜二が迫った。

安藤竜二(以下安藤) 三星刃物さんの歴史を教えてください。

渡邉隆久(以下渡邉) 私の曾祖父が関市で刀鍛冶をする傍ら、1873年(明治6年)に打刃物の製造、販売として創業しました。そして、1912年に祖父が東南アジアに向けて販売を始め、1935年に合名会社を設立、1947年に今の三星刃物になりました。1957年には、初の海外支店となるニューヨーク支店をマンハッタンに設立したんです。その当時、商社以外で海外へ進出する企業があまりなかったので、その意味で父は海外進出のパイオニア的存在ですね。当時は1ドル360円でしたので、日本の商品が飛ぶ様に売れたそうです。日本製品は安くて良いモノというイメージがあり、アメリカへ商品の見本を持っていくと、他社に見せたくないからと商談が終わるまでパスポートを取り上げられたこともあったと聞いております。ある商談での事なのですが、父が価格を提示すると「少し高い」と言うそうです。おかしいと思って聞くと、父は1ダース(12本)で価格提案をしたのに、相手は1本の価格だと勘違いしていたらしいんです。当時は右肩上がりでしたので、父はたとえ飛行機を何日も乗り継いででも、アメリカに行く価値があった様です。

安藤 お父様の時代は高度成長期ですよね。では、社長が入社するまでの話を聞かせてください。 

渡邉 4人姉弟の中で私1人だけ男でしたので、小さい頃から将来は社長だと言われて育ちました。それを信じて疑わず大学を卒業し、アメリカとドイツに留学しました。アメリカの大学では、語学留学生はレギュラーの学生から下に見られるんです。それが悔しくて、猛勉強しました。でも、日本人の英語はネイティブではないので、提出用のレポートなどはアメリカ人に直してもらう必要がある。それをしてくれる友達を作らなければならないんです。そこで思いついたのが、日本食を一緒に食べに行くこと。早速クラスメイトを誘ってレストランへ行くと、彼らは何を食べていいのか分からない。そこで、私が旨いものを教えてあげると、すぐに友達になれる。こういった経験から、コミュニケーション能力や生きていく術を身につけました。
 また、ある授業で『日本に原爆を落としたのは正しい判断だったのか?』という課題が出たんです。教授が、「ここに日本人がいるから聞いてみよう」と言うんです。アメリカ人100人の中に私1人だけ日本人で、本当に焦りました。戦後の日本や原爆の被害、その規模や悲惨さについての知識が少なく、上手く説明ができなかったのです。アメリカ人は、『原爆を落としたことで、日本人もアメリカ人も死傷者を減らすことにつながったからいい判断だった』という論拠なんです。それを崩すだけの力がない。涙が出るほど悲しかった。説得するには、数字と論拠を立てしっかり説明が出来なければ駄目なんだと思い知らされました。その時に、俺は日本で何をしていたんだと気づかされました。

安藤 アメリカでの経験が経営に活かされていくわけですね。日本に帰ってすぐに三星刃物に入社されたんですか。

渡邉 いえ。住友商事さんに2年間勤め、そこで商社の考え方を学び本社に入社しました。ちょうど1985年のプラザ合意の後だったので、急激な円高に直面しどんどん経営が悪化していく時期でした。そこで、1986年からフィリピン・中国などに工場を作り海外へ進出しました。中国の深セン市にある経済特区に日本企業の第1陣として工場を設立したのもこの頃です。

安藤 中国と日本では国民性も違いますよね。工場を続けるには苦労も多かったのではないでしょうか。

渡邉 中国では、毎日のように日本では考えられないような事が起きました。それに対処していたら、コストが掛かり赤字になってしまったんです。そこで、まずは何でも日本から取り寄せるのをやめて、現地調達を増やそうと考えました。でも、工場側から「日本の部品の方が品質がいいから代えたくない」と言われて衝突するんです。工場側を説得して徐々に現地調達へとシフトしていきました。
その結果、黒字になったんです。
 また、1992年に刃物の工場も設立したのですが、なかなか一つの工場だけでは売上を伸ばすことが難しい。そこで、単純な発想で中国は青龍刀の国だからきっと刃物の街もあるはず。それなら、中国で我々の製品を作ってもらおうと考えました。広州フェアーへ行って刃物を扱っているお店に「どこで作ってるの?」と聞いて回りました。
するとみんな「陽江(ヤンジャン)」と言うんです。陽江は広東省にありましたが広東省はすごく広い。次の日の朝に出て、陽江に着いたのは12時間後。薄暗い中歩いていると、道脇に屋台があってカンテラがぽうっと明るい。その灯りの下に、青龍刀が売ってるんですよ。 見つけた時は嬉しかったです。それから工場探しを始め、何とか協力して一緒にモノを作り上げることが出来る工場を見つけて商売を始めました。それが軌道に乗り出すと中国人たちはもっと仕事がしたいと言い出して、最終的には工場を移転する話になり、彼らに経営してもらう方へと舵をきったんです。そして、陽江での生産が始まりました。毎日のようにトラブルが発生していたので、中国では本当に多くのことを学び、そしてその一つ一つの難問に一緒に取り組んでくれた社員に、いつも"ありがとう"の気持ちを持っていました。

安藤 その決してあきらめない行動力が、今の三星刃物さんの原動力になっているんですね。販売のメインは海外なのでしょうか。

渡邉 海外が全体の70%で、残りの30%が国内販売、そして海外の内70%がアメリカ向けです。商品ですと、包丁類と食器類、ナイフがメインです。ウォルマートさんやターゲットさんには包丁を、スプーンやフォークはメーカーさんに買っていただいております。例えば、アメリカのONEIDA(オネイダ)という会社。彼らはレストランなどに卸しているのですが、ONEIDAと言う地域のコミュニティが作った、130年以上の歴史があるアメリカの誇りみたいな会社なんです。そこと取引きをさせていただいております。国内の30%は新潟の燕支店が請け負っています。支店を設立した当初は、新潟で作った物を海外へ輸出していたのですが、1985年の円高を境に輸出に陰りが出てきたので輸入商売を始めました。スプーンの他に、鍋やトースター、コーヒーメーカーや自社企画製品など家庭で使う生活用品を主に輸入しています。その商品を、国内の地場問屋さんに販売します。