印染(しるしぞめ)とは、半纏、のぼりや暖簾(のれん)、旗などに、屋号や家紋などを染め抜いてある染物のことで、印染業者の多くは、紺屋を前身とし、安土桃山時代から江戸時代にかけて発展した。水野染工場は創業明治40年(1907年)、富山から旭川に入植し、100余年。大雪山連峰のキレイな伏流水に恵まれ、北海道の地で印染業を営む。初代より「挑戦」する姿勢は現在にも受け継がれ、インターネットの導入や浅草に直営店の出店など、日本一の印染業を目指す四代目:水野弘敏に、地域ブランドプロデューサーの安藤竜二が迫った。

安藤竜二(以下安藤) 水野染工場さんの歴史を教えてください。

水野弘敏(以下水野) 野染工場は明治時代、富山県で「紺屋(染物屋)」として商いをしておりました。当時、富山県・石川県・福井県などから23万人が北海道に入植していた時代、初代の竹次郎が「旭川には紺屋がないから困ってる」と知人に誘われ、明治40年2月、新天地を求め旭川の地に移転したことが北海道での水野染工場の歴史のはじまりです。大雪山連峰のキレイな伏流水が潤沢で染め物にはとても適した土地であったのです。私で四代目になるのですが、戦前は主流だった着物が、戦後になると着物から洋服へ変化する時代の中、苦労も多々あったようです。「時代は変化するから商品も変化しないといけない」「現状に満足することが一番リスクが高い」など、代々の経営者から受け継がれてきた言葉と精神は現在の経営理念「真心と感謝を染めて 共に感動 そして挑戦」にも表されています。

安藤 水野社長は四代目ということですが、やはり染物屋になるべくして育てられたのですか。

水野 三人姉弟の末っ子で長男として生まれたため、小さい頃から周りの人には染物屋の跡継ぎだと言われ育ちました。家が仕事場だったので、職人さんの作業を間近に見ながら、伊勢型紙を作ることが子どもの頃の遊びになっていました。さらに、テレビを見ながら手ぬぐいをたたむ、など生活の中に染物屋が染みこんでいましたね。

安藤 跡を継ごうと思ったきっかけは何だったのですか。

水野 大学の頃のアルバイトがきっかけです。従業員が、100人いたらどんなにがんばっても101%しか給料が伸びない、当時水野染工場は3名の従業員と両親しかいない小さな会社だったため、倍がんばれば倍給料がもらえる、単純な発想からです。

安藤 そもそも職人として入社したのですか。

水野 最初は京都で修行しました。京都では、本場の染め方、新しい技術などの違いを目の当たりにし、さらに仕事が集まる流通ルートも存在することが分かり、水野染工場が、何が遅れていて何を変えていかなければいけないか勉強になりました。手の怪我がきっかけで旭川に戻り、学んだことを実践し始めたのが昭和60年(1985年)でした。当時は、午前中は営業周り、午後は染めの職人として働き、夜はJCとしての活動、と1人3役で動きまわる毎日でした。営業と言っても、新規営業はあまりせず、神輿会やJCに入り、友達を増やしていったのです。「縁」を大切にすることは会社経営の基礎にもなっています。

安藤 京都で学んだことを実践したのですね。当時の北海道では革新的だったのでは。

水野 もともと、引染(ひきぞめ)という刷毛で染料を生地に染め上げる染色技法のみで作っていた商品を北海道では誰もやっていなかった捺染(なせん)という型を用いた染めを導入しました。半纏やのぼりなどの量産化が可能となり、短納期・低価格を実現することができ、売上も順調に推移していきました。ただ、これ以上成長するにはどうしたらよいか考え、平成元年には法人化、さらに平成2年には、幹線道路沿いにあれば目立つのでは、という発想から現在の地、国道39号線沿いに移転したのです。

安藤 職人の世界で新しい技術を導入するには相当苦労されたのでは。

水野 印染業の職人は、染めの工程で色を作る場合、長年の経験と感覚で動いていくことが当たり前の世界だったのです。数値化していないから二度と同じ色を作りだすことが出来ない、さらに職人は人に教えるということをしないため、技術が受け継がれていかないことが課題だったのです。もちろん新しい技術の導入にも懐疑的でした。そんな中、まず色見本のレシピを作ることから始めました。色見本が300色になった頃から、職人から「どうやるのか」と聞かれるようになったのです。当たり前だった職人の世界の仕組みを変えた瞬間だと思いました。現在では、その色見本も5000色を超え、それを元に数万色の色合わせが可能になっています。