地域で愛され60年を迎えた、いわゆる街の電気屋さん「ナショナルヤガタ」。その代表取締役社長である矢形修己がいま最も力を入れていること、それは地域への社会貢献。物を売って終わりではなく、接着剤的役割として人や心もつなぐ。地域の社会貢献に力を注ぐ矢形修己に、サムライ日本プロジェクトの安藤竜二が迫った。

安藤竜二(以下安藤) はじめにナショナルヤガタさん創業の歴史をお聞かせください。

矢形修己(以下矢形) 父は学生時代、陸上競技の選手で鳴らして国鉄に入社しその後、退職。電気工事に資材を納入する業者と知り合い、昭和28年に中区錦1丁目で個人企業として創業しました。そして昭和30年、西区に本社ビルを建設して独立したんです。当時は、国鉄相手の仕事でしたが、松下電器からこれからは一般のお客様に家電を供給してほしいと通達があり、昭和44年に今の千種区へと移転しました。その頃は、ラジオ、アイロンなどを中心に販売していました。独立してから今までの60年間ずっと、ナショナル商品以外は売っていません。松下電器一筋です。

安藤 どうして松下を選ばれたのでしょうか。

矢形 当時の松下は、実績が伴わない小さい店のオヤジにいつ訪れても必ず会ってくれるばかりか、煙たがらずに受け入れてくれる、その雰囲気に惚れたそうです。とにかく大好きで、松下の社員よりも松下びいきでしたよ。ちなみに、松下電器で1番にCI(コーポレートアイデンティティ)も始めました。昭和56年に、ナショナルヤガタのロゴ制作をミズノのロゴをデザインした方に依頼したんです。ナショナルのNとヤガタのYがモチーフになった形で、青がパナソニック、赤がナショナルを表しています。

安藤 続いて、社長がナショナルヤガタさんに戻る前のことを教えてください。

矢形 実は松下電器で働いていました。約8ヶ月間の厳しい研修を経て、電子レンジの工場に配属となり販売促進と営業もしました。そこで、佐々木課長という電子レンジの説明をさせたら世界一と言われていた課長の下についたんです。話上手で話題になり、遂にはテレビCMにも出演しました。それで名が売れて本業が出来なくなったので、代わりに私が商品説明をしていたんです。その際、入社した時のスローガン『素直な心でみんなに学ぼう』という言葉そのままに、佐々木課長のコピーから始めたので商品説明が上手くなりましたね。全国から依頼があって飛び歩いていたほどです。その経験があったからこそ今の自分があると思っています。

安藤 その頃の経験が今の力になっているんですね。この他にも得意なことなどはありますか。 

矢形 今と一緒で、上司と部下など人と人をつなぐのが得意でした。前に出るのは得意じゃないですが、誰かの下にいてみんなをまとめるのは得意でした。だから、人とコミュニケーションをとる能力は優れていると思います。それもあって、全国1万7000店ある販売店の中でパナソニックの幹部の方々を1番よく知っているのではないでしょうか。

安藤 すばらしいですね。1万7000店もある販売店の中で、どうして矢形さんだけ深い人間関係が作れたのでしょうか。

矢形 私は自分の『勉強する2世会』を持ってるんですよ。昔はメーカー主体で、売り上げ上位の販売店だけで旅行へ行く『招待会』があったんです。でも、その会が減っていくのでいつか消滅する時代が来るだろうと思って、1992年に全国の2世を9人集めて『NSP21』という勉強会を作りました。メーカー主導の会議ではなく販売店主導の会議としてメーカーをゲストとして呼び、お互いの意見をぶつけあう事で市場の声を聞いてもらう取り組みをしています。表にはあまり出ない組織ですが、パナソニックの方向をブラさないようにしている重要な会なんですよ。

安藤 次の世代へ繋ごうという会を作られたということですね。主な活動内容を教えてください。

矢形 この会は1年に5回ほど開いているのですが、工場とのやりとりで参画もしています。そうして、量販店では売っていないパナソニック販売店専門の商品を作っています。なぜなら、量販店さんのお客様と販売店のニーズは違うからです。例えば、冷蔵庫でも大容量をウリに高さ190センチのものを平気で作る。でもその高さだと、お年寄りなど届かない人が出るから、高さ175センチのものを作るなど、私たちのノウハウが入ったものを提案しています。そうやって、私たちはお客様の為の家電を販売しているんです。ニーズに合わせた商品を提供しないとお客様が離れていくから、ちゃんと考えようとこの会で話し合っています。今は30アイテムぐらいしかないですが、将来的には200アイテムにしたいですね。これは量販店さんとの差別化です。