前触れもなく訪れる不況は中小企業にとって脅威であると同時に、時として企業を成長させるきっかけにもなる。愛知県大府市にある株式会社鬼丸は、プラスチック加工を生業とする町工場。2008年のリーマンショックを機に、ある新しい事業を創造した。そのストーリーに「サムライ日本プロジェクト」の安藤竜二が迫った。

安藤竜二(以下安藤) 株式会社鬼丸は鬼丸さんが創業されたんですか?

鬼丸正之(以下鬼丸) 創業は1977年、私が12歳の時に、父が「鬼丸工業所」として立ち上げました。当時は鉄工業の工場。私は20歳で専門学校を卒業し、2年半サラリーマンをした後、バブル期で忙しかった工場に入ることになりました。

 当時、溶接など鉄工所の技術を活かして、窯業(ようぎょう)にも携わり、タイルなど陶器の原料を作る機械のメンテナンスをやらせてもらっていました。多治見、瀬戸、瑞浪など窯業の盛んな町をはじめ、青森から九州までを飛び回って、現場仕事の毎日。これが全国でも我々にしかできないオンリーワンの仕事でしたので、まず仕事がなくなることはないだろう、そう思っていました。

 しかし、バブルがはじけたことで、事態は急変。徐々に仕事が減ってしまったんです。日に日に暇になっていく工場で「このままではマズイ」と、次の一手を考えました。そこで、今まで外注に任せていた仕事を自社工場でまかなえるようにと、思い切って旋盤やフライスの機械を導入。できる仕事の幅を広げ、スタッフも抱えることに。こうして業態を変化させたことで、何とか潰れずに乗り切れたんです。現在メインでやっているプラスチック加工もこの設備投資がきっかけでした。

安藤 鬼丸さんはいつから社長に?

鬼丸 2000年に跡を継いで代表になり、目指したのは社員に隠し事のないクリアな会社。社員には売り上げを包み隠さず教え、毎年、毎月、毎日の売り上げ目標を共有しました。そして、それを達成できたら、ボーナスとして還元するという、モチベーションを上げて取り組める仕組みを作りました。

 バブル崩壊の経験から、「いずれ仕事はなくなるもの、いつでも違う業態になる覚悟をしておけ」「どうしようもなくなったら、皆でラーメン屋やるぞ」と社員には冗談半分に言っていました。そういった慎重な考えがあるのと同時に、お客さんの求めるものを、求める品質と納期で確実に収めていく、つまり当たり前のことを当たり前にやっていけば、きっと仕事はなくならないはずだという思いもありました。

 2008年9月、リーマンショック。その後しばらくは仕事がありましたが、年が明け、本当に仕事がなくなってしまったんです。1月の売り上げは今までの3分の1に。苦渋の決断でしたが、3月には給料カットも断行。それでも誰一人辞めることなく、一緒に頑張ろうと付いてきてくれました。

 仕事がないので、私は独学でホームページ制作を開始。もともとパソコンは好きでしたが、ウェブ制作は初挑戦でした。さらに、今までできなかった工場のペンキ塗りや、掃除、雑用に明け暮れる日々。しかし、そのうちに掃除をするところもなくなってしまった。今までは、来る仕事に対してのみ応えるというスタンスでしたが、人生で初めて営業回りも。しかし、なかなか手ごたえはなく……。このまま1年続けば、会社は持たない。ストレスで体調も悪く、不安で涙を流すこともありました。

安藤 絶望の淵から這い上がれたきっかけは何だったのですか?

鬼丸 再投資でなく、今ある人材・設備・技術で新しいことはできないか。ある日のミーティングでスタッフの一人が、友人の結婚式のウェルカムボードを作ったことがあると言ったのです。ウェルカムボード? 恥ずかしながら私はその名前すら知りませんでしたが、とにかく彼に作らせてみました。それは発泡スチロールを半田ごてで溶かしてデザインしたものだったのですが、制作時間がかかり採算が合わない、とボツに。しかし、このスタッフ、実は老後に習字の先生になるのが夢で、書道の師範の免許を持っていたんです。この「書」を活かして新しい展開ができないか。筆でメッセージを書いた和風のウェルカムボードはどうだろうか。ボードを製作する技術ならお手のもの。希望の光が見えてきたようでした。